荒井勝一郎(矢場勝)
(あらいかついちろう)
(1876〜1962)

八木節やぎぶしひろめる

 荒井勝一郎あらいかついちろうは、1876ねん明治めいじねん)に、群馬県ぐんまけん山田郡やまだぐん矢場川村やばがわむらまれました。としは、八木節やぎぶしひろめたことで有名ゆうめい堀込源太ほりごめげんた渡辺源太郎わたなべげんたろう)より4つしたでした。勝一郎かついちろうは、朝倉清三あさくらせいぞう丸山清三郎まるやませいざぶろう)というひと八木節やぎぶしをならいました。その仲間なかまに、堀込源太ほりごめげんたもいて、源太げんた勝一郎かついちろう二人ふたり師匠ししょううたをうけついだとわれています。有名ゆうめいになってきた勝一郎かついちろうは、「矢場勝やばかつ」とよばれるようになりました。
 八木節やぎぶし人々ひとびとひろられるようになったのは、明治時代めいじじだいわりから大正時代たいしょうじだいのはじめにかけてで、いまから90ねんくらいまえのことです。そのころ、矢場勝やばかつは、堀込源太ほりごめげんたんで、あちこちの地方ちほうったり、柴田しばたサーカスでうたったりしました。とおいところでは、北海道ほっかいどうまでって公演こうえんしたそうです。
 矢場勝やばかつは、これまでには使つかわれてなかったつづみ三味線しゃみせんといった楽器がっきをくわえ、八木節やぎぶしをはなやかなものにしました。八木節やぎぶし有名ゆうめいになったのは、矢場勝やばかつのそういう工夫くふうがあったからかもしれません。
 矢場勝やばかつは、1962ねん(昭和37ねん)3がつ、86さいくなりました。おはかは、里矢場町さとやばちょう明林寺みょうりんじにあります。
 「堀込源太ほりごめげんた」という名前なまえもうけつがれて、いまでものこっていますが、この「矢場勝やばかつ」も、群馬県ぐんまけん太田市おおたし名前なまえをうけついでいるひとがいるそうです。