1880年(明治13年)12月6日、栃木県梁田郡有志人民総代である羽刈村の大谷宗七(56歳)と堀島村(現在の堀込、島田両町)の秋田啓三郎(27歳)の二人はその時の元老院(明治時代の国会)議長に国会開設の建白書(国民に選ばれた議員でつくる国会をつくろうという意見書)を出しました。1874年(明治7年)1月に板垣退助らによって政府に出された民撰議院設立の建白書より6年おくれました。この1880年(明治13年)には県内のほかの人たちも国会開設の建白書を提出しています。これは1879年(明治12年)から1880年(明治13年)にかけて全国に広がりつつあった自由民権運動が栃木県内にも広がってきた証拠で、栃木県の国会開設運動はいよいよ、本格的にはじまることになります。
ところで、この建白書に梁田郡有志人民総代の一人として名前が書かれている秋田啓三郎という人はいったい、どんな人物なのでしょうか。秋田家は代々島田村の名主(村をおさめる仕事をしていた人)で、啓三郎は定一郎、ホノの長男として1853年(嘉永6年)7月3日に生まれています。
そして1883年(明治16年)1月19日、父の定一郎が仕事をやめて、啓三郎は秋田家を継ました。啓三郎は定一郎が仕事をやめる前でも、父親の代理として村の政治をしていることもあったようです。このように啓三郎は、若いときから政治とのかかわりを持つようになりました。
1894年(明治27年)3月、栃木県会議員に見事当選しました。そして1896年(明治29年)3月の選挙にも当選し、県議会議員を二期(二回)つとめました。県議会議員をしているあいだ、啓三郎の行動で一番注目することは、1895年(明治28年)9月に梁田郡有志者総代として「梁田郡山辺村大字田中ヨリ足利郡足利町大字足利ニ達スル渡良瀬川橋梁新設願(渡良瀬川の橋を新しくつくるお願い)」を県に出したことです。その最初に「夫レ国運ノ進歩ハ事業ノ発達ニアリ、事業ノ発達ハ行路ノ通否如何ニアリ(国がさかえるには、役に立つ仕事が発達することが大切で、役に立つ仕事がさかえるには交通が良くないといけない)」と言っています。
啓三郎はこの仕事に自分のお金、百円を橋をつくるお金の一部にと寄付しました。自分から協力して地域社会のためにつくそうとした彼の態度はりっぱと言うべきでしょう。また、1897年(明治30年)5月から1898年(明治31年)4月までと、1907年(明治40年)9月から1915年(大正4年)9月まで御厨村長をつとめました。啓三郎は1912年(明治45年)1月16日、病気を理由に村長をやめたいと県知事に言いましたが、同月30日、御厨村の人びとは啓三郎を引きとめる文書をそれぞれ村会議員に提出しました。このようにして、啓三郎は村議を通じて引き留められました。このことからも彼が人びとに尊敬され、信じられていたことがわかると思います。なお、1908年(明治41年)8月には三栗谷耕地整理区連合会長もやりました。
このように地域の人々に信じられていた彼も、1915年(大正4年)9月に村長の仕事を辞めました。その後啓三郎は河南同志会々長として代議士栗原彦三郎(民政党)をとても応援するなど年をとっても政治のことを一生懸命考えていました。
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