山口甚四郎は、1874年(明治7年)7月29日、粟谷村の田部田家の次男として生まれました。はじめ、甚四郎は田部田勇吉という名前でした。
1887年(明治20年)、14歳の時、勇吉は、山口家の養子となりました。
その後、勇吉は、東京に行って商店につとめ、夜は学校に通って勉強をしました。そして、1893年(明治26年)、足利にもどり、家がやっていた織物業をいっしょうけんめいにしました。
勇吉は、1905年(明治38年)9月、31歳の時、山口甚四郎の名前をうけつぎ、2代目となりました。1910年(明治43年)には、足利町の町会議員になりました。1920年(大正9年)には、足利町が足利市になり、市会議員になりました。そして、1925年(大正14年)には、足利市長になりました。甚四郎は、市長として足利市の発展のために努力をしました。しかし、市長になったときの約束通りに、約4年で市長をやめてしまいました。
1926年(大正15年)に、足利信用組合(今の足利信用金庫)ができると、甚四郎は専務理事という仕事をしました。そして、1929年(昭和4年)には、2代目の組合長となり、信用組合を大きくするために努力しました。
また、1922年(大正11年)には、小学校建築委員となり、自ら当時のお金で100円をきふするなど、足利市の小学校をつくるために力をつくしました。1938年(昭和13年)には、足利実践女学校(今の足利短大附属高校)の校長となり、5年間つとめました。
甚四郎は、1946年(昭和21年)2月になくなりました。73歳でした。お墓は、法玄寺にあります。
参考 「山口甚四郎傳」(宇賀神利夫)
|