埼玉県児玉郡出身の岡上(岡登)景能(次郎兵衛)は、上野国(群馬県)の幕府の土地を治める役人(代官)として働いた人です。
江戸時代の初めの1662年(寛文2年)に上野国の代官となりました。人のためになることなら、他の人の言うことに左右されず、ただ実行することを第一とした人であったと言われます。彼は1667年(寛文7年)、群馬県桐生市境野の渡良瀬川から取水し、足利の町から北郷の村々に及ぶ用水を作り上げました。この用水はその後取水口が何度も変更になり、栃木県から取水することになり、柳原用水と呼ばれるようになりました。
この柳原用水により、足利の北の水田は水不足に悩むことが少なくなったと言われます。またこの用水にはいろいろな技術が使われており、今福から市内にはいるところにはトンネルで水を通し、そこから山際を通ることで土地の高い北郷方面に向かって流れています。さらに名草川の下を通して東に横切り、対岸の水田を潤しています。
そして、稲作に必要な水を運ぶだけでなく、柳原用水は遊歩道に沿った水路として、織姫神社から東に向かうところでは、素晴らしい風景も作っています。
さて岡上景能は1671年(寛文10年)、群馬県新田郡笠懸町周辺の土地へ、渡良瀬川の水を引いて岡登用水堀を完成させました。しかしこの用水の成功に対して、よく思わない心ない人や、今までに比べ流量が変わることにいい思いをしていない用水の上流や下流の人々がそろって彼を訴えたため、切腹して命を終わることになりました。後に彼は位をもらって、彼の仕事は見直されました。彼のお墓は治めていた群馬県笠懸町にある国瑞寺にあり、藪塚本町には岡登神社があって彼をまつっています。
機会があったら、用水に沿って歩いてみませんか。
参考文献:「新編足利浪漫紀行」
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