岡上(岡登)次郎兵衛景能
(おかのぼりじろべえかげよし)
(1626〜1687)

 埼玉県さいたまけん児玉郡こだまぐん出身しゅっしん岡上おかのぼり岡登おかのぼり景能かげよし次郎兵衛じろべえ)は、上野国こうずけのくに群馬県ぐんまけん)の幕府ばくふ土地とちおさめる役人やくにん代官だいかん)としてはたらいたひとです。
 江戸時代えどじだいはじめの1662ねん寛文かんぶんねん)に上野国こうづけのくに代官だいかんとなりました。ひとのためになることなら、ほかひとうことに左右さゆうされず、ただ実行じっこうすることを第一だいいちとしたひとであったとわれます。かれは1667ねん寛文かんぶんねん)、群馬県ぐんまけん桐生市きりゅうし境野さかいの渡良瀬川わたらせがわから取水しゅすいし、足利あしかがまちから北郷きたごう村々むらむらおよ用水ようすいつくげました。この用水ようすいはその取水口しゅすいぐち何度なんど変更へんこうになり、栃木県とちぎけんから取水しゅすいすることになり、柳原やなぎわら用水ようすいばれるようになりました。
 この柳原用水やなぎわらようすいにより、足利あしかがきた水田すいでん水不足みずぶそくなやむことがすくなくなったとわれます。またこの用水ようすいにはいろいろな技術ぎじゅつ使つかわれており、今福いまふくから市内しないにはいるところにはトンネルでみずとおし、そこから山際やまぎわとおることで土地とちたか北郷きたごう方面ほうめんかってながれています。さらに名草川なぐさがわしたとおしてひがし横切よこぎり、対岸たいがん水田すいでんうるおしています。
 そして、稲作いなさく必要ひつようみずはこぶだけでなく、柳原やなぎわら用水ようすい遊歩道ゆうほどう沿った水路すいろとして、織姫おりひめ神社じんじゃからひがしかうところでは、素晴すばらしい風景ふうけいつくっています。
 さて岡上景能おかのぼりかげよしは1671ねん寛文かんぶん10ねん)、群馬県ぐんまけん新田郡にったぐん笠懸町かさかけまち周辺しゅうへん土地とちへ、渡良瀬川わたらせがわみずいて岡登おかのぼり用水堀ようすいほり完成かんせいさせました。しかしこの用水ようすい成功せいこうたいして、よくおもわないこころないひとや、いままでにくら流量りゅうりょうわることにいいおもいをしていない用水ようすい上流じょうりゅう下流かりゅう人々ひとびとがそろってかれうったえたため、切腹せっぷくしていのちわることになりました。のちかれくらいをもらって、かれ仕事しごと見直みなおされました。かれのおはかおさめていた群馬県ぐんまけん笠懸町かさかけまちにある国瑞寺こくずいじにあり、藪塚本町やぶづかほんまちには岡登おかのぼり神社じんじゃがあってかれをまつっています。
 機会きかいがあったら、用水ようすい沿ってあるいてみませんか。


参考文献さんこうぶんけん:「新編しんへん足利あしかが浪漫紀行ろまんきこう