岡村勇
(おかむらいさむ)
(1880〜1971)

三栗谷用水みくりやようすい改良かいりょうすすめる

 岡村勇おかむらいさむは、1880ねん明治めいじ13ねん)4がつ20にちいま島田町しまだちょうまれました。岡村家おかむらけは、江戸時代えどじだいにはむらのまとめやく名主なぬし)だったそうです。御厨みくりや尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこういま足利市立あしかがしりつ御厨小学校みくりやしょうがっこう)を卒業そつぎょうし、宇都宮うつのみや船田兵吾ふなだひょうご作新学院さくしんがくいんをつくったひと)のところで勉強べんきょうしましたが、病気びょうきからだよわく、半年はんとしほどでかえってきてしまいました。しかしそのねんほどたってから東京とうきょう錦城中学校きんじょうちゅうがっこうて、さらに明治法律学校めいじほうりつがっこういま明治大学めいじだいがく)に進学しんがくしました。けれどもこちらも病気びょうきのため途中とちゅうでやめて、1902ねん明治めいじ35ねん病気びょうきをなおすために、また足利あしかがもどってきました。
 1904ねん明治めいじ37ねん)、人にたのまれて御厨村役場みくりやむらやくば職員しょくいんとなって、1911ねん明治めいじ44ねん)に足利郡役所あしかがぐんやくしょにつとめ、1913ねん大正たいしょうねん)からは御厨普通みくりやふつう水利組合すいりくみあい職員しょくいんになりました。そして1931ねん昭和しょうわねん御厨町長みくりやちょうちょうえらばれ、御厨用水みくりやようすい用水ようすい農業のうぎょうなどでつかうみずながみち)を管理かんりするひととなったことから、御厨用水みくりやようすいとのかかわりが本格的ほんかくてきはじまりました。
  現在げんざい足利市あしかがし南部なんぶ渡良瀬川右岸わたらせがわうがん)をうるおす、三栗谷用水みくりやようすいは1570ねん元亀げんき元年がんねん)につくられたといわれます。明治時代めいじじだいから足尾銅山あしおどうざんで、ほりだしたいしからどうをつくりだすときにでる、人間にんげん作物さくもつがいのあるどく鉱毒こうどく)にくるしめられ、大正時代たいしょうじだいになると水不足みずぶそくにおそわれました。これは足尾あしおやまれて充分じゅうぶんみずをたくわえることが出来できなくなってしまい、そこからみずがながれてこなくなったことからおきたものです。
 鉱毒こうどく水不足みずぶそくをなくすため、岡村勇おかむらいさむらは、1933ねん昭和しょうわねん三栗谷用水みくりやようすい幹線改良事業計画かんせんかいりょうじぎょうけいかくみずとおってくるところをよくする計画けいかく)をて、政府せいふくにをまとめる仕事しごとをしているところ)にねばりづよねがつづけました。その結果けっかはじめは積極的せっきょくてきではなかった政府せいふも、1935ねん昭和しょうわ10ねん)にくに仕事しごととみとめ、つぎとしから工事こうじはじまりました。この工事こうじは、第二次世界大戦だいにじせかいたいせんをはさんで5かいけられ、1968ねん昭和しょうわ43ねん)にできあがりました。岡村勇おかむらいさむらはこの工事こうじのときに、足尾あしお古河鉱業ふるかわこうぎょうがおかねすように、努力どりょくもしました。これにより三栗谷用水みくりやようすいは、渡良瀬川わたらせがわの水を直接ちょくせつとるだけでなく、地下水ちかすい使つかうことで水不足みずぶそくをなくし、鉱毒こうどくがはいっていないみずながすことに成功せいこうしました。また鉱毒こうどくをふくむ土砂どしゃ中川町なかがわちょうにあった沈砂地ちんさちりのぞいたことは、日本中にほんじゅうからたか評価ひょうかけたといわれています。
 その岡村勇おかむらいさむは1970ねん昭和しょうわ45ねん)まで三栗谷用水みくりやようすい土地改良区とちかいりょうく理事長りじちょうをつとめ、1957ねん昭和しょうわ32ねん)からはじまった三栗谷みくりや区画整理くかくせいり事業じぎょう指導者しどうしゃとなりました。これらのことから、藍綬褒章らんじゅほうしょう(1957ねん)・勲五等くんごとう双光旭日章そうこうきょくじつしょう(1964ねん)をもらいました。
 1971ねん昭和しょうわ46ねん)11がつ15にちおおくの農民のうみんにおしまれながら、岡村勇おかむらいさむくなりました。かれおこなったことは用水ようすいのまわりにある石碑せきひかれています。どんななのか、どんなことがかかれているのか、調しらべてみましょう。


参考資料さんこうしりょう郷土きょうど人々ひとびと足利あしかが佐野さのまき下野しもつけ新聞社しんぶんしゃ