川島維佐
(かわしまいさ)
(1865〜1946)

文章を通して地域のためにつくす

 川島維佐かわしまいさは1865ねん慶応元年けいおうがんねん)5がつにちまれました。高松町たかまつちょうにある維佐いさまれたいえは、武士ぶしのやかたあととして足利市あしかがし文化財ぶんかざい指定していされています。
 維佐いさはおさないころから中国ちゅうごく学問がくもんまなび、東京とうきょうて、本格的ほんかくてき勉強べんきょうしたこともありました。故郷こきょうにもどってから、維佐いさはふるさとの歴史れきし関心かんしんをもち、1887ねん明治めいじ20ねん)9がつに、「両毛外史りょうもうがいし」という、両毛地方りょうもうちほう戦国時代せんごくじだい歴史れきし漢字かんじかれたほんにしています。23さいのときでした。
 1915ねん大正たいしょうねん)5がつされた「行道記勝ぎょうどうきしょう」という行道山ぎょうどうさんをテーマとした漢詩集かんししゅうには、 江戸時代(えどじだい)末以来まついらい漢詩人かんしじん作品さくひん収録しゅうろくしていますが、維佐いさいた「遊行道山記ゆうぎょうどうさんき」という紀行文きこうぶんもはいっています。これは1914ねん大正たいしょうねん)10がつ30にちかれ友人ゆうじんとも行道山ぎょうどうさんあそんだとき作品さくひんで、あき行道山ぎょうどうさんうつくしさを、うたった詩文しぶんです。
 ところで、維佐いさは1891ねん明治めいじ24ねん)11がつ25にちに「足尾之鉱毒あしおこうどく」という雑誌ざっししました。有名ゆうめい 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)についてあつかった雑誌ざっし鉱毒(こうどく)のひがいのたいへんな様子ようすをうったえたものです。作物さくもつそだたないで、農民のうみんくるしんでいるのをていられない維佐いさつよ気持きもちちがあらわれています。