木村半兵衛
(きむらはんべえ)
(1832〜1886)

学問、武芸を好む
倒幕の志士へも経済援助

 足利あしかが歴史れきしなかには、4にん の「木村きむら半兵衛はんべえ」がでてきます。これはむかし、 のあるいえでとくに優秀ゆうしゅうひとたときには、その名前なまえ代々受だいだいうぐしきたりがあったためです。木村家きむらけ場合ばあい 、「木村きむら半兵衛はんべえ」をのった初代しょだい優秀ゆうしゅうであったので、その名前なまえが4代目だいめ までひきつがれました。足利あしかが 織物おりものおおきくのびていくために、4だいの 「木村きむら半兵衛はんべえ」 がちからをつくしましたが、ここではおもに織物おりもの仕事以外しごといがいのいろいろなことでもかつやくした3代目だいめ の「木村きむら半兵衛はんべえ」をとりあげて説明せつめい します。なので、とくに何代目なんだいめかないかぎり、3代目だいめ の「木村きむら半兵衛はんべえ」のことをさすとおも っていてください。なお、初代しょだい、2代目だいめ、4代目だいめについてもすこ しだけふれるつもりです。
 小俣おまた木村家きむらけ江戸時代えどじだいはじめより、桐生きりゅう足利あしかが織物おりもの買継商かいつぎしょう織物おりもの仕入しいれてきて,それをさらにおみせなどに仕事しごと)としてはんじょうしてきました。いま小俣おまた旧道沿きゅうどうぞい(当時とうじ宿しゅく といった)にそのころの木村家きむらけ石垣いしがき土倉どぞう がのこっています。初代しょだい木村きむら半兵衛はんべえ は、足利郡あしかがぐん猿田村さるたむら小泉こいずみ兵右衛門へいうえもん二男じなんとしてうまれました。その木村家きむらけ どもとして養子ようしになり、あたらしい父親ちちおや木村平七きむらへいしち織物おりもの買継商かいいつぎしょう をしました。そして、足利あしかが桐生きりゅう をはじめとする両毛地区りょうもうちく一帯いったい織物おりもの をあつかい、だい商人しょうにんとして成長せいちょうしていきました。
 3代目だいめ木村きむら半兵衛はんべえをついだのは、現在げんざい埼玉県さいたまけん本庄市ほんじょうし当時とうじ本庄宿ほんじょうしゅく)の庄屋しょうや内田うちだ 忠造ちゅうぞう長男ちょうなんとしてまれた政七 でした。政七は1849ねん嘉永かえい二年にねんに17さい木村家きむらけ養子ようし になり、後継あとつぎとなりました。1869ねん 明治めいじねん)に、3 代目だいめ木村きむら半兵衛はんべえ名前なまえ ぎました。
 半兵衛はんべえは、学問がくもん 武芸ぶげい(おさむらいさんが につけたわざ)がきでした。 漢学かんがく大橋訥庵おおはしとつあん から おそわり、また、剣道けんどう千葉周作ちばしゅうさく先生せんせいなら いました。半兵衛はんべえ学問がくもん 武道ぶどうもどちらも一生懸命いつしょうけんめい がんばりました。また天皇(てんのう)をそんけいし、とても大切たいせつ おもっていて、おな おもいをもつ水戸みと武士ぶしとこれからの 日本にほんについてなど、いろいろとはな うときもありました。
 江戸時代(えどじだい)おわわりころ、半兵衛はんべえ おこなったおおきな仕事しごと としては、足利内あしかがないのものでは、 買継商かいつぎしょう木半きはんをよりおお きくさせ、足利一あしかがいち買継商かいつぎしょう になったこと、そして織物おりものつく 人々ひとびと直接ちょくせつ指導しどう するなどして、足利あしかが両毛地方りょうもうちほう 織物おりものをいちだんとおお きくさせたことがあげられます。足利以外あしかがいがいのものでは、 江戸幕府えどばくふたおすことをめざす武士ぶしはな い、かれらにおかね してあげたこと、小俣村おまたむらのことをいつも 大切たいせつかんがえ、 積極的せっきょくてきにたすけてあげたことがあげられます。
 1861ねん文久元年ぶんきゅうがんねん はるだい木村木村半兵衛はんべえ 自分じぶん のおかね500りょう し、まずしい人々ひとびと たすける活動かつどう 使つかってもらいました。また、ばん阿寺なじ 御橋再建寄付連名碑」のなか発起人ほっきにん 総代そうだい計画けいかくした 人々ひとびと代表だいひょう 木村きむら半兵衛はんべえ 35りょう寄進きしんとあります。1856ねん 安政あんせいねん)12 がつの 2代目半兵衛だいめはんべいまご勇三ゆうぞう(のちの 4だい木村きむら半兵衛はんべえ)が まれた記念きねんなのです。
明治維新めいじいしんは、 半兵衛はんべえにとって十分じゅうぶん予測よそく できたものでした。時代じだいおおきく わっても、 豪商ごうしょう 木半きはんはまったくわりませんでした。いやそれどころか、 江戸時代えどじだいわりごろ 以上いじょうにいろいろなめん 大活躍だいかつやくをしました。半兵衛はんべえ ちからは、江戸時代えどじだいより、 明治時代めいじじだいになってからのほうが びていったようでした。
 そのころから足利織物あしかがおりものはいちだんとおお きくなり、初代しょだい木村きむら半兵衛はんべえ 足利あしかがひとたちの努力どりょく で、1832ねん天保てんぽうねん桐生市場きりゅうしじょうから 独立どくりつして足利市場あしかがしじょうもできました。1859 ねん安政あんせいねん )に横浜港よこはまこう外国がいこく ふね れるようになったことも、桐生きりゅうとはぎゃく にこれを足利あしかがひとたちは 有利ゆうり利用りようしました。2 代目だいめと3だい木村きむら半兵衛はんべえ も、十分じゅうぶん利用りようしました。 明治維新めいじいしんのときはとても なか混乱こんらんしていましたが、その 足利織物あしかがおりものはふたたび、 おおきくなりはじめました。1873 ねん明治めいじねん )からはつき12かい 織物市おりものいち足利町あしかがまち ひらかれるようになり、足利織物あしかがおりものはますます びていきました。このようなとき 半兵衛はんべえ会社かいしゃ 買継商かいつぎしょう木半きはん足利あしかが 一番大いちばんおおきいものでありつづけました。さらに、1877 ねん明治めいじ10ねん西南戦争せいなんせんそうこったことから景気けいき くなり、木半きはんのあつかう金額きんがくは40 万両まんりょう以上いじょうになるほどでした。会社かいしゃ であつかう品物しなものは、国内こくない 織物おりものだけでしたが、半兵衛はんべえはこの とき外国がいこくにこの品物しなもの れないかとかんがえていました。1877 ねん明治めいじ10ねん )にはとても性能せいのうい、フランス せいジャガード紋織機もんおりき れています。1881ねん 明治めいじ14ねん)には足利あしかが 桐生きりゅう機屋はたや 外国がいこくるための織物おりもの をつくるようにすすめ、できた製品せいひん横浜よこはま 貿易商ぼうえきしょうりこんでいます。この 仕事しごとについては 3代目だいめ長男ちょうなん 勇三ゆうぞうとの共同作戦きょうどうさくせんでした。1882 ねん明治めいじ15ねん )からは、この作戦さくせん成功せいこうし、 会社かいしゃはますますおおきくなりました。
  明治めいじになって 学制がくせいがだされると、 半兵衛はんべえ足利郡あしかがぐん 学区長がっくちょうになり、教育きょういく めんでもちからをつくしました。 地元じもと小俣おまたには、自分じぶん のおかねして 小俣おまた小学校しょうがっこうをひらき、もと 足利藩あしかがはん漢学者かんがくしゃ川上広樹(かわかみひろき)校長こうちょうとして、むら どもたちに、勉強べんきょうおし えてもらうことにしました。また、むらのために自分じぶん のおかねして 小俣おまた義倉ぎそう玄米げんまい500ぴょうむ。) をたてました。また、大火事おおかじ のあとの1876ねん〜1877ねん 明治めいじねん〜10ねん )に、小俣宿通おまたしゅくどおりの民家みんか 木村きむら半兵衛はんべえのかしてくれたおかね 藁葺かやぶ屋根やねから瓦葺かわらぶ きの屋根やねわりました。
 これらの仕事しごとがとてもおおきく 評価ひょうかされて、1879ねん 明治めいじ12ねんだいかい栃木とちぎ県議会けんぎかいにすいせんされて、 栃木とちぎ県議会けんぎかい議員ぎいんになりました。おな とし栃木町とちぎまちにつくられた 第四十一だいよんじゅういち国立銀行こくりつぎんこう頭取とうどりとなり、 栃木とちぎ銀行ぎんこう世界せかい でも重要じゅうようはたら きをしました。1882ねん明治めいじ 15ねん)には日本鉄道にほんてつどう をつくることに、1886ねん明治めいじ 19ねん)には両毛鉄道りょうもうてつどう をつくることに努力どりょくをしました。
 塊陰かいいんばれた 半兵衛はんべえは、1886ねん 明治めいじ19ねん)3がつ とおり丁目ちょうめ別邸べっていでなくなりました。葬式そうしき 小俣おまた村民そんみん はみな仕事しごとやすんで 葬式そうしきにきてくれたそうです。
 半兵衛はんべえをつけた 両毛鉄道りょうもうてつどう建設けんせつは、その のち代目だいめ木村きむら半兵衛はんべえ にひきつがれ、1889ねん明治めいじ 22ねん完成かんせいしました(ちゅう1)。
代目だいめ木村きむら半兵衛はんべえは、 有限責任ゆうげんせきにん両毛鉄道会社りょうもうてつどうがいしゃ 副社長ふくしゃちょうになりました(ちゅう2)。 また、代々だいだい木村家きむらけ 仕事しごとであった買継商かいつぎしょう 足利機業あしかがきぎょう組合くみあい 組合長くみあいちょう などの本来ほんらい商人しょうにんとしての 仕事しごとのほか、 栃木とちぎ県議会けんぎかい議員ぎいん、さらに 衆議院しゅうぎいん議員ぎいんになり、けんくに 仕事しごとふかくかかわるようになりました。その 結果けっか、かれは活動場所かつどうばしょ 東京方面とうきょうほうめんへうつさなくてはならなくなりました。そして、最後さいご には先祖せんぞ代々だいだい したしんだ小俣おまた足利あしかが をはなれることになってしまったのは、とても残念ざんねんなことでした。




ちゅう1: 1888(明治めいじ21)ねんがつ小山おやま-足利間あしかがかん 11がつ足利あしかが-桐生間きりゅうかん 1889(明治めいじ22)ねん小山おやま-高崎間たかさきかん開通かいつう

ちゅう2: 社長しゃちょうは、経済雑誌社社長けいざいざっししゃしゃちょう 田口卯吉たぐちうきち

参考資料さんこうしりょう 宇賀神利夫うがじんとしお 木村きむら半兵衛はんべえ
下野新聞社しもつけしんぶんしゃ 足利あしかが人脈じんみゃく
木村半兵衛顕彰会きむらはんべいけんしょうかい 『木村きむら半兵衛はんべえ概要がいよう