足利 の歴史の中には、4人 の「木村半兵衛」がでてきます。これはむかし、名 のある家でとくに優秀な人 が出たときには、その名前を代々受 け継ぐしきたりがあったためです。木村家の場合 、「木村半兵衛」を名のった初代 が優秀であったので、その名前が4代目 までひきつがれました。足利 織物 が大きくのびていくために、4代の 「木村半兵衛」 が力をつくしましたが、ここではおもに織物 の仕事以外のいろいろなことでも活やくした3代目 の「木村半兵衛」をとりあげて説明 します。なので、とくに何代目と書かないかぎり、3代目 の「木村半兵衛」のことをさすと思 っていてください。なお、初代、2代目、4代目についても少 しだけふれるつもりです。
小俣の木村家は江戸時代 の初めより、桐生や足利 の織物の買継商(織物 を仕入れてきて,それをさらにお店などに売 る仕事)としてはんじょうしてきました。今も小俣 の旧道沿い(当時は宿 といった)にそのころの木村家の石垣と土倉 がのこっています。初代木村半兵衛 は、足利郡猿田村の小泉兵右衛門 の二男としてうまれました。その後木村家の子 どもとして養子になり、新しい父親 の木村平七と織物の買継商 をしました。そして、足利、桐生 をはじめとする両毛地区一帯の織物 をあつかい、大商人として成長していきました。
3代目木村半兵衛をついだのは、現在 の埼玉県本庄市(当時 は本庄宿)の庄屋内田 忠造の長男として生まれた政七 でした。政七は1849年 (嘉永二年) に17歳で木村家の養子 になり、後継ぎとなりました。1869年( 明治2年)に、3 代目木村半兵衛の名前 を継ぎました。
半兵衛は、学問や 武芸(お侍さんが身 につけた技)が好きでした。 漢学を大橋訥庵 から 教わり、また、剣道は 千葉周作先生に習 いました。半兵衛は学問 も武道もどちらも一生懸命 がんばりました。また天皇をそんけいし、とても大切 に思っていて、同じ 思いをもつ水戸の 武士とこれからの 日本についてなど、いろいろと話し 合うときもありました。
江戸時代の 終わりころ、半兵衛が 行った大きな仕事 としては、足利内のものでは、 買継商木半をより大 きくさせ、足利一の買継商 になったこと、そして織物を作る 人々を直接に指導 するなどして、足利や両毛地方 の織物をいちだんと大 きくさせたことがあげられます。足利以外のものでは、 江戸幕府を 倒すことをめざす武士と話 し合い、かれらにお金を 出してあげたこと、小俣村のことをいつも 大切に考え、 積極的にたすけてあげたことがあげられます。
1861年(文久元年) 春、 2代木村半兵衛 は自分 のお金500両を 出し、貧しい人々 を助ける活動に 使ってもらいました。また、ばん阿寺 「 御橋再建寄付連名碑」の中に発起人 総代(計画した 人々の代表) 木村半兵衛 35両寄進とあります。1856年 (安政3年)12 月の 2代目半兵衛の 孫勇三(のちの 4代木村半兵衛)が生 まれた記念なのです。
明治維新は、 半兵衛にとって十分予測 できたものでした。時代が大きく 変わっても、 豪商 木半はまったく変わりませんでした。いやそれどころか、 江戸時代の終わりごろ 以上にいろいろな面で 大活躍をしました。半兵衛の 力は、江戸時代より、 明治時代になってからのほうが 伸びていったようでした。
そのころから足利織物はいちだんと大 きくなり、初代木村半兵衛や 足利の人たちの努力 で、1832年(天保3 年)桐生市場から 独立して足利市場もできました。1859 年(安政6年 )に横浜港が外国の 船を受け入 れるようになったことも、桐生とは逆 にこれを足利の人たちは 有利に利用しました。2 代目と3代木村半兵衛 も、十分利用しました。 明治維新のときはとても世の 中が混乱していましたが、その 後、足利織物はふたたび、 大きくなり始めました。1873 年(明治6年 )からは月12回の 織物市が足利町に 開かれるようになり、足利織物はますます 伸びていきました。このような時、 半兵衛の会社の 買継商木半は足利 で一番大きいものでありつづけました。さらに、1877 年(明治10年の )西南戦争が 起こったことから景気が良 くなり、木半のあつかう金額は40 万両以上になるほどでした。会社 であつかう品物は、国内の 織物だけでしたが、半兵衛はこの 時、外国にこの品物 を売れないかと考えていました。1877 年(明治10年 )にはとても性能の良い、フランス 製ジャガード紋織機を買 い入れています。1881年( 明治14年)には足利 、桐生の機屋 に 外国に売るための織物 をつくるようにすすめ、できた製品を横浜 の貿易商に売りこんでいます。この 仕事については 3代目の長男の 勇三との共同作戦でした。1882 年(明治15年 )からは、この作戦が成功し、 会社はますます大きくなりました。
明治になって 学制がだされると、 半兵衛は足利郡の 学区長になり、教育の 面でも力をつくしました。 地元の小俣には、自分 のお金を出して 小俣小学校をひらき、もと 足利藩の 漢学者川上広樹 を校長として、村の子 どもたちに、勉強を教 えてもらうことにしました。また、村のために自分 のお金を出して 小俣義倉 (玄米500俵積む。) をたてました。また、大火事 のあとの1876年〜1877年( 明治9年〜10年 )に、小俣宿通りの民家は 木村半兵衛のかしてくれたお金で 藁葺き屋根から瓦葺 きの屋根に変わりました。
これらの仕事がとても大きく 評価されて、1879年( 明治12年)第 1回栃木県議会にすいせんされて、 栃木県議会議員になりました。同 じ年、栃木町につくられた 第四十一国立銀行の 頭取となり、 栃木の銀行の世界 でも重要な働 きをしました。1882年(明治 15年)には日本鉄道 をつくることに、1886年(明治 19年)には両毛鉄道 をつくることに努力をしました。
塊陰と呼ばれた 半兵衛は、1886年( 明治19年)3月 に通4丁目の 別邸でなくなりました。葬式の 日、小俣の村民 はみな仕事を休んで 葬式にきてくれたそうです。
半兵衛が手をつけた 両毛鉄道の建設は、その 後4代目木村半兵衛 にひきつがれ、1889年(明治 22年) 完成しました(注1)。
4代目木村半兵衛は、 有限責任両毛鉄道会社の 副社長になりました(注2)。 また、代々木村家 の仕事であった買継商や 足利機業組合の 組合長 などの本来の商人としての 仕事のほか、 栃木県議会議員、さらに 衆議院議員になり、県や国の 仕事に深くかかわるようになりました。その 結果、かれは活動場所を 東京方面へうつさなくてはならなくなりました。そして、最後 には先祖代々慣れ 親しんだ小俣や足利 をはなれることになってしまったのは、とても残念なことでした。
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