1856年(安政3年)11月11日、足利本町の下町に生まれました。幼いころの名は重吉、先代(お父さん)平五郎の次男、母は川島藤左衛門の長女そで子でした。先代平五郎もなかなかの人であったらしく、三宝院にある墓誌(死んだ人のやりとげた仕事などを書いているもの)によれば「ほかの人とはちがう感じで、書道や絵がすきで、普通の人よりもすぐれていた。梅や竹、ランやキクの花の南画とよばれる絵がすきだった」と書かれていました。また田崎草雲の友人でもありました。先代平五郎は、48歳で亡くなっています。その時平五郎は14歳でした。平五郎は12歳のとき、宇都宮の奈良屋呉服店ではたらき、戸田藩邸(戸田藩の屋敷)に出入りして、呉服物(着物)の売り買いをしたり、店でお客の相手をしたりしました。この間に商売のしかたを学んだものと思われます。1873年(明治6年)20歳のとき足利に帰り、名を継いで平五郎としました。
1875年(明治8年)三泉堂という書店をひらき、そのほか薬品や生活に必要ないろいろなもの(口紅やくし、せっけんなど)を売っていました。そのお店をやりながら、田崎草雲の弟子となり、瀬石という名前で絵を楽しみました。これは父の才能を受け継いだものと思われます。1879年(明治12年)、26歳のとき、相場杢左衛門・小此木平吉ら数人と同盟社という団体をつくって、町がにぎやかになり、ますます力をつけていくにはどうしたらいいかということを話し合いました。平五郎はその考えがこまかくすぐれていて、しかも町の発展ということをいつも考えていたので、まわりの人にすすめられて、1880年(明治13年)、27歳で足利町会議員になりました。これが、平五郎が足利のことをやるようになった第一歩でした。
その後、足利郡学務委員・足利町人民総代などになりました。1889年(明治22年)から、足利町会議員・学務委員・足利学校遺跡および図書館管理委員・足利郡会議員および議長、それから、足利町長となり、1920年(大正9年)には自治功労者(地域のために力をつくした人)として県知事から表彰されています。
そのころ、織物業がさかえたのといっしょに、足利がどんどん発展していき、人口35,000、戸数(家の数)5,800をこえるくらいになったので、市にしたいという声が町民におこっていました。平五郎を中心にして準備を進め、1921年(大正10年)1月1日に足利市となり、足利公園広場で大きな祝賀会(お祝いの会)が行われました。平五郎は臨時市長代理となり、まもなく天皇のゆるしをもらい、第一代市長となりました。当時、市の職員は市長のほかに47人でした。いま1,470人であることを思うと、その発展に驚くばかりです。
市長となった平五郎がいつもその胸の中で考えていたのは、足利市史の編さん(足利の歴史をまとめること) でした。そのころは、天皇のおさめていた国だという歴史の見方が強かったので、足利といえば足利尊氏のふるさととして天皇にさからった武士の出身地であり、足利から東京そのほかの地にいく人の多くが仕事のなかまからいじめられていました。平五郎はこのことをとても残念に思い、足利のすぐれた歴史を市民に知らせ、また、まわりの人びとにわかってもらうため、市史の編さんを考えたものと思われます。そのころ市史がある市は、大阪市くらいでした。備前出身(今の岡山県)で西村辰次郎という歴史家が文部省にいるので、自分から出かけていってお願いをしました。西村は、よろこんでこの仕事を引き受けてくれました。足利市史を書いた人がほとんど地元の人であるのは、そのためと思われます。
西村辰次郎がいうには、足利市史編さんに心から協力してくれたのは、川島平五郎・山越忍空・丸山瓦全の三人であったといいます。しかし川島平五郎は市史の完成する前、1926年(大正15年)、70歳で亡くなりました。その墓誌は、山越忍空が書いています。墓は三宝院にあり、法名は「幽邃院蓮誉浄瀬居士」といいます。心から足利を愛し、足利の発展につくした人でした。
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