川上広樹
(かわかみひろき)
(1838〜1896)

足利学校事蹟考あしかががっこうじせきこうをのこす

 川上広樹かわかみひろきは、1838ねん天保てんぽうねん)、足利藩あしかがはん江戸留守居役えどるすいやく中村正兵衛なかむらせいべえとしてまれました。1859ねん安政あんせいねん)、22さいとき、その才能さいのうみとめめられて、はん家老かろう川上重右衛門かわかみじゅうえもん養子ようしになりました。その家老かろうとなり、江戸時代えどじだいわりごろのはんをよりくする改革かいかく担当たんとうしました。明治維新めいじいしんは、はん学校がっこうである求道館ぐどうかん足利学校あしかががっこう一緒いっしょにしたり、そのなかにあるほん修理しゅうりをおこなったりしました。また、1874ねん明治めいじねん)には、小俣小学校おまたしょうがっこうはじめての校長こうちょうとして仕事しごとをするほかに、日本にほんのさまざまな文学ぶんがく中国ちゅうごく文学ぶんがくなどをおしえ、小俣村おまたむら教育きょういくにもたいへんちからをつくしました。その、1885ねん明治めいじ18ねん)には、東京とうきょうて、修史館しゅうしかん英語学校えいごがっこう郁文館いくぶんかんなどの学校がっこう先生せんせいをしました。また、田中卯吉たなかうきちというひと中心ちゅうしん活動かつどうする東京経済雑誌社とうきょうけいざいざっししゃの『大日本人名辞書だいにほんじんめいじしょ』などをつくることにもかかわりました。
 広樹ひろきは、1886ねん明治めいじ19ねん)の足利公園古墳あしかがこうえんこふん発掘はっくつときには、坪井正五郎つぼいしょうごろうという大学だいがく先生せんせいによる調査ちょうさができるようにするなど、足利あしかがをはなれても、ふるさとがますますおおきく成長せいちょうしていくためにちからをつくしました。
 その、1890ねん明治めいじ23ねん)には東京文学院とうきょうぶんがくいん、1894ねん明治めいじ27ねん)には学習院がくしゅういん先生せんせいをしました。やがて、ふたたび小俣村おまたむらかえり、日本にほんのさまざまな文学ぶんがく中国ちゅうごく文学ぶんがくなどをおしえたこともありましたが、1895ねん明治めいじ28ねん)12がつ東京とうきょうでなくなりました。58さいでした。
 広樹ひろきいたほんなかでも代表的だいひょうてきな『足利学校あしかががっこう事蹟考じせきこう』は、足利学校あしかががっこうはいつ、だれがつくったのかというはなしや、歴史れきしなどをまとめたものとして有名ゆうめいです。いまでも、足利学校あしかががっこう研究けんきゅうするには、だれもが一度いちどとおしています。