船田兵吾は上渋垂町の神官(赤城神社)の子として生まれました。船田家は先祖代々神職にかかわり、学識もあったので、小さい頃から学問に親しんでいたと言われています。地元に学校ができるとそこに入学し、家でも勉強をたくさんしました。
その後宇都宮で勉強するために、下宿をして、下野英学校に通って英語を勉強しました。下野英学校は一時学校を閉じましたが、兵吾が経営の一人に加わり、黒羽藩校作新館の名を継いで、新たに私立学校を開校しました。
兵吾が経営者になると、1895年(明治28年)、文部省の認可を得て、私立尋常中学作新館としました。その後、船田家が経営を引き継ぎ、現在は、作新学院として大学や高校のある私立学校となっています。
兵吾の教育に対する考え方は、「自学自習」で、学校だけでなくそれ以上に自分で勉強することが必要であると考えていました。このことは「他に頼ることなく、自ら進んで困難に突き当たり、自ら苦心して自分の力で問題を解き、疑問を解決していこう。」といつも人に話していたことからもわかります。また田中正造とも親しく、彼から日本における教育者の代表と言わせるほどの人物であったといわれました。
ふるさとの足利に戻ってきたときは、必ず上渋垂町の赤城神社を参拝し、先祖のお墓参りをしていたといわれています。しかし、1924年(大正13年)、57歳でなくなりました。
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