船田兵吾
(ふなだひょうご)
(1868〜1924)

 船田ふなだ兵吾ひょうご上渋垂町かみしぶたれちょう神官しんかん赤城あかぎ神社じんじゃ)のとしてまれました。船田家ふなだけ先祖代々せんぞだいだい神職しんしょくにかかわり、学識がくしきもあったので、ちいさいころから学問がくもんしたしんでいたとわれています。地元じもと学校がっこうができるとそこに入学にゅうがくし、いえでも勉強べんきょうをたくさんしました。
 その宇都宮うつのみや勉強べんきょうするために、下宿げしゅくをして、下野しもつけ英学校えいがっこうかよって英語えいご勉強べんきょうしました。下野しもつけ英学校えいがっこう一時いちじ学校がっこうじましたが、兵吾ひょうご経営けいえい一人ひとりくわわり、黒羽藩校くろばねはんこう作新館さくしんかんいで、あらたに私立しりつ学校がっこう開校かいこうしました。
 兵吾ひょうご経営者けいえいしゃになると、1895ねん明治めいじ28ねん)、文部省もんぶしょう認可にんかて、私立尋常中学じんじょうちゅうがく作新館さくしんかんとしました。その船田家ふなだけ経営けいえいぎ、現在げんざいは、作新学院さくしんがくいんとして大学だいがく高校こうこうのある私立学校しりつがっこうとなっています。
 兵吾ひょうご教育きょういくたいするかんがかたは、「自学自習じがくじしゅう」で、学校がっこうだけでなくそれ以上いじょう自分じぶん勉強べんきょうすることが必要ひつようであるとかんがえていました。このことは「ほかたよることなく、みずかすすんで困難こんなんたり、みず苦心くしんして自分じぶんちから問題もんだいき、疑問ぎもん解決かいけつしていこう。」といつもひとはなしていたことからもわかります。また田中たなか正造しょうぞうともしたしく、かれから日本にほんにおける教育者きょういくしゃ代表だいひょうわせるほどの人物じんぶつであったといわれました。
 ふるさとの足利あしかがもどってきたときは、かなら上渋垂町かみしぶたれちょう赤城神社あかぎじんじゃ参拝さんぱいし、先祖せんぞのお墓参はかまいりをしていたといわれています。しかし、1924ねん大正たいしょう13ねん)、57さいでなくなりました。