田代義徳
(たしろぎとく)
(1864〜1912)

整形外科の祖として、医学の発展につくす>

 田代たしろ義徳ぎとくは、1864ねん元治がんじ元年がんねん)7がつ26にち田中村たなかむらいま田中町たなかちょう)のふるくからつづいている立派りっぱいえ代々だいだい名主なぬしをつとめた田部井家たべいけ三男さんなんとしてまれました。はじめ、義徳ぎとく田代又助たしろまたすけという名前なまえでした。
 義徳ぎとくは、6さいとき井草町いぐさちょうにあった清花堂せいかどう>半年勉強はんとしべんきょうしました。そして八幡町やわたちょう禅定院ぜんじょういんにあった立教りっきょう小学校しょうがっこう栃木とちぎ中教院ちゅうきょういんという学校がっこう日本にほん中国ちゅうごく学問がくもん勉強べんきょうしました。その十五歳じゅうごさい八幡村やわたむら小学校しょうがっこう教師きょうしとなりました。しかし、もっと勉強べんきょうをしたいという気持きもちがつよく、東京とうきょうって英語えいごやドイツまなび、やがて東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶすすみました。1888ねん明治めいじ21ねん)に卒業そつぎょうし、医者いしゃとしての第一歩だいいっぽしました。
 ところで田部井たべいから田代たしろという名字みょうじわったわけは、つぎのようなことでした。
 あるとしふゆ軍隊ぐんたい訓練くんれんのために両毛地方りょうもうちほう出張しゅっちょうした、軍医総監ぐんいそうかん軍隊ぐんたいについている医者いしゃなかでいちばんくらいがうえひと)の田代基徳たしろもとのり田部井家たべいけにとまりました。そのとき田代氏たしろしは、「又助またすけあさからばんまで書物しょもつんでいて、ふとんにもぐりこんでも、まだ辞書じしょをはなさない。」というはなし又助またすけははからいて、すっかりかんげきし、なんとしても養子ようしにしたいとかんがえ、すう月後げつご正式せいしき養子ようしになってほしいとたのんだのです。
 田代義徳たしろぎとくとなった又助またすけは、文部省もんぶしょう教育きょういく担当たんとうするくに役所やくしょ)の留学生りゅうがくせいとしてドイツにき、整形せいけい外科げか研究けんきゅうしました。帰国きこくすると、医学博士いがくはくしとなり、卒業そつぎょうした東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅとなって整形外科学せいけいげかがくおしえました。1912ねん明治めいじ45ねん)、東京とうきょう田代病院たしろびょういんをつくりましたが、りっぱな医者いしゃとして有名ゆうめいになり、日本にほん整形せいけい外科げかをはじめたひとわれるようになりました。
 東京とうきょうでいそがしい仕事しごとをしていても、義徳ぎとくは、いつもふるさと足利あしかがおもい、ときどき足利あしかがています。足利友愛義団あしかがゆうあいぎだん荻野萬太郎おぎのまんたろう中心ちゅうしんになってつくった社会しゃかいのためになる活動かつどうをしたグループ)がおこなった学術講演会がくじゅつこうえんかいなどはその代表的だいひょうてきなものです。