丸山瓦全
(まるやまがぜん)
(1874〜1951)

 丸山瓦全まるやまがぜんは、1874ねん明治めいじねん足利市あしかがしとおり五丁目ごちょうめまれました。ちいさいころの名前なまえ太市郎たいちろうといい、のちちちをついで、源八げんぱちのりました。瓦全がぜんは、わかころ川上かわかみ音二郎おとじろう一座いちざはいり、役者やくしゃをめざしていました。しかし、あきらめて、用事ようじ北海道ほっかいどう旅行りょこうをしたとき出会であった歴史れきしほんが、かれ人生じんせいえました。
 瓦全がぜんは、とく考古学こうこがく興味きょうみち、文化財ぶんかざい調査研究ちょうさけんきゅうすすめました。その業績ぎょうせきなかでよくひとられていることが、1920ねん大正たいしょうねん)に佐野市さのし羽田はねだ竜江院りゅうこういんかれていた木像もくぞう紹介しょうかいしたことです。このぞうは、のち研究けんきゅうで1600ねん慶長けいちょうねん)に九州きゅうしゅうながいたオランダせん「リーフデごう」の船尾せんびふねのいちばんうしろのほう)にけてあったエラスムスぞうであり、とても貴重きちょうなものであることがわかりました。
 また、瓦全がぜんは1923ねん大正たいしょう12ねん)に足利あしかが考古会こうこかい結成けっせいし、歴史れきし考古学こうこがく研究けんきゅう発展はってんにつくしました。それらの功績こうせきみとめられ、1949ねん昭和しょうわ24ねん)には、だいかい栃木県とちぎけん文化ぶんか功労賞こうろうしょう受賞じゅしょうしました。
 1932ねん昭和しょうわねん)ごろ、旧東きゅうひがし小学校しょうがっこう校舎こうしゃあたらしくてかえるさいに、それまでのこっていた足利学校あしかががっこう南側みなみがわ土塁どるい校庭こうていひろげるためこわされてしまいました。瓦全がぜんは、市役所しやくしょって、土塁どるい保護ほごしなければならない理由りゆうはなすとともに、今後こんごどうするのか、かんがえをしめすようにもうれました。しかし、瓦全がぜん納得なっとくがいかず、裁判さいばんをおこしました。一度いちどこわされてかたちがなくなってしまった文化財ぶんかざいは、たとえおなじようにもとにもどしても、その価値かちがなくなってしまうので、足利学校あしかががっこうまもっていかなければならないという、瓦全がぜんつよ気持きもちがつたわってきます。
 1951ねん昭和しょうわ26ねん)6がつ遺跡いせき調査ちょうさかえみちいまのJR両毛線りょうもうせん足利駅あしかがえきでの事故じこがもとでなくなりました。78さいでした。