源太は本名を渡辺源太郎といい、1872年(明治5年)1月29日、梁田郡堀米村(現在の堀込町)82番地で、源五郎の長男として生まれました。生家は貧しい小作農家だったので、源太は学校に行かないで、少年のころは子守(小さい子どものめんどうを見ること)などをしていましたが、やがて家の仕事を手伝って働きました。父親の源五郎も芸事(「おどり」や「うた」)には理解があったので、源太も早くから芸事への関心を持っていたようです。源太は盆踊唄(盆踊りの時に神楽、神をまつるための音楽やおどり)なども上手で、のちに地方の劇団にも参加することになります。
源太は18才の時結婚し、20才の頃、荷馬車引きになり、葛生の石灰を運びました。
源太はこの道のとちゅう、荷物がからになると、かいばおけ(うまにえさをやるためのおけ)をたたいて、馬子唄や盆踊唄を唄いました。生まれつききれいな声の持ち主であったところから、彼が唄いながら通ると、道のそばの機織り娘たちは一斉に手を休めて、聞きほれたということです。そして、いろいろな所の盆踊り大会などへ出場しては優勝をして、そのうち源太の名前は近くの村や町に広がっていったのです。記憶力(ものを覚える力)がすばらしく、同じ唄を2,3回聞けば必ず覚えてしまったといわれています。また、好きな唄を自分流に唄いやすいようにしていました。
1907年(明治40年)8月15日の夜、源太が中心となり、上加子(いまの久保田町)で、盆踊り大会を開いたことがありました。このとき、テンポの早い源太の唄に人気が集まり、これがレコード吹き込み(レコードを作ること)のきっかけになったとのことです。
源太の八木節がレコードとして売り出されたのは大正3年のことですが、当時の人々の気持ちに合うところがあったのでしょう。源太の八木節は多くの人のうわさになり、大変親しまれました。やがて、ラジオ放送の番組でも流れ、大正7年5月には浅草六区の萬盛館で、名人会のひとりとして出演することになりました。この時、源太は「足利音頭八木節」の題名を使っていました。そして神戸の吉原興業といっしょに各地をまわって唄うことになるのですが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で仕事がまったく出来なくなりました。彼が52才の時でした。
東京から足利にもどった源太は堀米宝性寺まえに住まいを決めて、もう一度活躍する日を待ちましたが、彼の出番は失われたままでした。折にふれて九州、北海道に招かれて出演することはあっても、もはや一番活躍したころの人気はなく、妻沼方面や、赤城山麓周辺(赤城山のふもと)の町村などで公演するだけした。
そして昭和18年12月18日、71才でその生涯を終えました。「芸は身を助ける(何かにすぐれた力を持っていると、生きていくための助けになる)」と言いますが、民謡歌手として全国にその名を知られるようになったのは、やはり源太がまれな才能に恵まれていたからでしょう。
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