鈴木栄太郎
(すずきえいたろう)
(1894〜1977)

医者いしゃとして病気びょうきの人のためにつくす

 鈴木すずき栄太郎えいたろうは、1894ねん明治めいじ27ねん)10がつ20にち足利あしかが借宿かりやど材木ざいもくいをまとめる仕事しごとしていたちち宇太郎ははかつの長男ちょうなんとしてまれました。足利あしかが西小にししょうねん柳原小やなぎわらしょう高等科こうとうかねん勉強べんきょうしたのち佐野さの中学校ちゅうがっこうすすみました。卒業後そつぎょうご足利あしかが織屋はたやいとってぬのつくちいさな工場こうじょう)で仕事しごとをしました。当時とうじ織屋はたやは、あさからよる10まで、ほとんどやすみなしの15時間じかん労働ろうどうたりまえという、たいへんな仕事しごとでした。
 栄太郎えいたろうは、織屋はたやに2年間ねんかんつとめてから、ながあいだゆめだった新潟にいがた医専いせんいま新潟にいがた医大いだい)にはいり、1917ねん大正たいしょうねん)に卒業そつぎょうしました。卒業そつぎょう同時どうじ東京とうきょうき、神田かんだというところの近藤こんどう外科げか病院びょういんに2ねんほどつとめました。そして、外科げか手術しゅじゅつうでみとめられ、甲府こうふ山梨やまなし病院びょういんに26さい副院長ふくいんちょうとしてむかえられました。
 足利あしかがになったのとおなじ1921ねん大正たいしょう10ねん)1がつ現在げんざい足利市あしかがし栄町さかえちょう丁目ちょうめ病院びょういんひらきました。そのころ、栄太郎えいたろうは「盲腸先生もうちょうせんせい」という名前なまえ有名ゆうめいになりました。としをとってから「盲腸もうちょう手術しゅじゅつしたのは5干人せんにんくらいかな」とっていますが、たいへんなかずです。またかれは、病気びょうきひとのために、直前ちょくぜんまで応診おうしん病人びょうにんいえって診察しんさつすること)にまわっていたそうです。
 栄太郎えいたろうは、1969ねん昭和しょうわ44ねん)5がつ足利あしかがんだ有名ゆうめい画家がか田崎草雲たざきそううん展示てんじする美術館びじゅつかん草雲美術館そううんびじゅつかん」を、やく千万円せんまんえんで、白石山房はくせきさんぼうにわてました。さらに1973ねん昭和しょうわ48ねん)4がつには、720万円まんえんでこの美術館びじゅつかん館内かんない草雲そううん使つかったものをおさめる部屋へやもつくり、どちらもにきふしました。
 また、草雲そううん美術館びじゅつかんだけでなく、1973ねん昭和しょうわ48ねん)7がつには、当時とうじのおかねで2億円おくえんといわれた、とおり丁目ちょうめ織姫おりひめ公民館こうみんかんうらにある茶室ちゃしつ物外軒ぶつがいけん」と、総面積そうめんせき1678平方へんほうメートルのりっぱな庭園ていえんにきふしました。この「物外軒ぶつがいけん」は江戸時代えどじだい猿田さるた回船問屋かいせんどんやふね品物しなものおくとどける仕事しごと)の長四郎三ちょうしろうざというひとが、江戸えど茶人さじんなどを招待しょうたいするため、おかねをかけてつくった茶室ちゃしつです。
 「大切たいせつ文化財ぶんかざいは、市民しみんのものであって、私物化しぶつか個人こじんのものとする)すべきものでない」。というのは、いかにも栄太郎えいたろうらしい言葉ことばではないでしょうか。足利市あしかがし栄太郎えいたろうおこないをたたえ顕彰状けんしょうじょうという賞状しょうじょうをおくったほか、をつくりました。
 栄太郎えいたろうは、1977ねん昭和しょうわ52ねん)11がつ27にち、81さいくなりました。