2代 岡嶋忠助
(おかじまちゅうすけ)
(1853〜1905)

利益りえき近代産業発展きんだいさんぎょうはってん役立やくだてる

 2だい岡嶋忠助おかじまちゅうすけは、1853ねん嘉永かえいねんいま山前地区やままえちく大前町おおまえちょうまれました。もとの名前なまえは、寺内隆之助てらうちたかのすけといいました。どものころから隆之助たかのすけはとても あたまがよく、経済けいざい才能さいのうにすぐれた青年せいねんになりました。19さいとき初代しょだい岡嶋忠助おかじまちゅうすけむすめコトと結婚けっこんし、忠助ちゅうすけどもとなりました。隆之助たかのすけは、初代忠助しょだいちゅうすけといっしょに 農業のうぎょう仕事しごとをしたり、生糸きいとったり、土地とちいとったりする 仕事しごとをしました。そして、あたらしく織物製造業おりものせいぞうぎょうもはじめました。
 1880ねん明治めいじ13ねん初代忠助しょだいちゅうすけが45さいわかさでなくなりました。隆之助たかのすけは、岡嶋家おかじまけぎ、2代岡嶋忠助だいおかじまちゅうすけとなりました。絹織物きぬおりもの輸出ゆしゅつおおくなり、岡嶋家おかじまけはますますちからち、一番力いちばんちからっていたころには、日本にほん十数番目じゅうすうばんめちからった大地主おおじぬしといわれるようになりました。
 2代忠助だいちゅうすけは、仕事しごとでもうけたおかねをいろいろなものをどんどんつくるようにするために使つかいました。鉄道会社てつどうがいしゃ株主かぶぬし会社かいしゃのおかねしたひと)になって、1897ねん明治めいじ30ねん)には山前駅やままええきをつくりました。山前駅やままええきには、くにくに品物しなものいしている外国がいこく商人しょうにんがよくりをしていたということです。また、足利銀行あしかがぎんこうや、織物おりもの関係かんけいする会社かいしゃにおかねして、役立やくだてました。
 1905ねん明治めいじ38ねん)2代忠助だいちゅうすけは、病気びょうきくなりました。53さいでした。