初代 岡嶋忠助
(しょだい おかじまちゅうすけ)
(1835〜1880)

豪商ごうしょう岡嶋家おかじまけ基礎きそをつくる

 初代しょだい 岡嶋忠助おかじまちゅうすけは、1835ねん天保てんぽうねんいま山前地区やままえちく山下町やましたちょうにまれました。
 岡嶋家おかじまけ農家のうかでしたが、いえをついだ忠助ちゅうすけは、農業のうぎょうだけでなく、絹織物きぬおりもののもとの材料ざいりょうである生糸きいといを仕事しごとにしていました。
 1859ねん安政あんせいねん)、日本にほん鎖国さこく外国がいこくとのつきあいをやめること)をやめて外国がいこく品物しなものいをするようになりました。行動力こうどうりょくのある青年せいねん成長せいちょうした忠助ちゅうすけは、生糸きいといを、外国がいこく相手あいてにしてするようになりました。足利あしかが横浜よこはまあいだをたくさんし、北関東きたかんとうでつくった生糸きいと外国がいこくることによって、とてもおおきなもうけをれました。明治めいじになってからも、岡嶋家おかじまけ生糸きいと商人しょうにんとしてちからち、足利地方あしかがちほうでも数少かずすくない「豪商ごうしょう」とわれるようになりました。忠助ちゅうすけは、商売しょうばい農地のうちいあつめ、岡嶋家おかじまけはたくさんの土地とち大地主だいじぬしでもありました。
 ばんな本堂ほんどうまえに、ふたつのとてもおおきな鉄製てつせいみずおけがあります。これは、忠助ちゅうすけが1880ねん明治めいじ13ねん)1がつ奉納ほうのうしたものです。
 豪商岡嶋家ごうしょうおかじまけ基礎きそをつくった、初代しょだい 岡嶋忠助おかじまちゅうすけは、みずおけを奉納ほうのうした1880ねん明治めいじ13ねん)の7がつに45さいわかさで病死びょうししました。みずおけの奉納ほうのうは、あるいは病気びょうきがなおってほしいというねがいをこめたものだったのかもれません。