室田忠七は、1870年(明治3年)久野村野田(今の久野地区野田町)に生まれました。室田家は、広い田畑を持ち久野村の中でも生活が豊かな農家でした。
28歳の時、鉱毒被害民(金属からでる毒で被害にあった人々)として、東京への請願(国に文書でおねがいすること)に参加してから、田中正造たちといっしょに行動し、久野村の鉱毒委員、東京の鉱毒事務所の請願委員をつとめ、足利地方の鉱毒運動のリーダーでした。特に、忠七が1897年(明治30年)から1902年(明治35年)までの行動を記録した「鉱毒事件日誌」は、足尾鉱毒事件の研究をするための重要資料となっています。この日誌を見ると、1897年(明治30年)3月からの3年間だけで、287日もの多くの日数を、役所へお願いしにいったり、鉱毒反対の集会(集まり)をひらいたり、足尾銅山にじっさいに行って、ようすを見て確かめたりすることなどに使っています。
1900年(明治33年)2月23日、渡良瀬川沿岸(渡良瀬川の岸の近く)の鉱毒の被害をうけた農民1万2千人は、東京をめざして大行進を始めました。これまでの何回もの請願にもかかわらず、政府や銅山会社のうけこたえがあまりにも冷たかったからです。行進は、途中で警察官との大きな争いになり、鉱毒運動のリーダーたちの多くが逮捕されました。忠七も逮捕され、裁判にかけられました。この事件は、事件の起きた地名をとって『川俣事件』と呼ばれています。
この事件は、多くの人々の関心を鉱毒問題に向けさせることになり、大きな社会問題になりました。裁判は、最初の判決では忠七も含めて51人が有罪とされましたが、その後何回かの裁判の結果、最後には、全員が無罪判決を受けました。
その後室田忠七は、久野村会議員、農会議員、足利郡会議員などになり、1938年(昭和13年)6月、69歳で亡くなるまで、ずっと農民のために活動を続けました。
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