川島長十郎
(かわしまちょうじゅうろう)
(1847〜1937)

よい織物おりものをつくるためにつくす

 川島長十郎かわしまちょうじゅうろうは、1847ねん嘉永元年かえいがんねんいま五十部町よべちょうまれました。
 川島家かわしまけは、そのころの五十部村よべむら名主なぬしでした。そして織物おりもの仕事しごとをしていました。長十郎ちょうじゅうろうは、ちいさいころは瑞泉院ずいせんいん寺子屋てらこや勉強べんきょうし、20さいいえをつぎました。1872ねん明治めいじねん)には、五十部村よべむら戸長こちょうになりました。いま三重小学校みえしょうがっこうもとになった五十部学校よべがっこうてるなど、むら人々ひとびとみんなが勉強べんきょうできるように一生懸命いっしょうけんめい努力どりょくしました。その村会議員そんかいぎいん郡会議員ぐんかいぎいん県会議員けんかいぎいんとなり、むらがますますおおきくなるようにちからをつくしました。
 長十郎ちょうじゅうろうは、織物おりもの品質ひんしつくすることに努力どりょくをし、足利織物全体あしかがおりものぜんたいをさらにおおきくさせていくことに、大変たいへんおおきな役割やくわりたしたことでもよくられています。1877ねん明治めいじ10ねん)には、東京とうきょう内国博覧会ないこくはんくらんかい織物おりもの審査委員しんさいいんをつとめました。このとき、フランスから最新式さいしんしき織物おりもの機械きかいい、これをもとにして、高級こうきゅう美術品びじゅつひんとしての織物おりもの技術ぎじゅつ完成かんせいさせました。やがて足利織物あしかがおりものは、京都きょうと西陣織にしじんおりにくらべてもけないほどの品質ひんしつとなり、外国がいこくへもたくさんられるようになりました。長十郎ちょうじゅうろう足利あしかが機織業者はたおりぎょうしゃひとつにまとめて機業組合きぎょうくみあいつくり、二代目にだいめ組合長くみあいちょうになりました。
 長十郎ちょうじゅうろうの、織物おりもの品質ひんしつをもっとよいものにしたというねがいは、職人しょくにんさんをそだてる学校がっこうをつくるところまですすみました。1885ねん明治めいじ18ねん足利織物講習所あしかがおりものこうしゅうじょてられ、所長しょちょうとしてつとめることになりました。この足利織物講習所あしかがおりものこうしゅうじょいま県立けんりつ足利工業あしかがこうぎょう高等学校こうとうがっこうです。ここで技術ぎじゅつまなんだたくさんのひとたちが足利市あしかがし織物工業おりものこうぎょうけつぎ、足利市あしかがしをますますおおきくしていったのです。
 長十郎ちょうじゅうろうは、江戸時代えどじだいわりから、明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわとさまざまな時代じだいきて、1937ねん昭和しょうわ12ねん)、90さいでなくなりました。