人見竹洞は、1637年(寛永14年)に京都で、足利学校に関係があると言われている小野篁の血すじをひく家に生まれました。まわりがみな儒教を勉強している儒学者一家で、医学(お医者さんの勉強)と語学(言葉の勉強)を父から、経史を林羅山から学びました。そして、林羅山が中心となって作った「本朝通鑑」という漢字で書かれた歴史書にもかかわっていたと言われています。勉強がよくでき、25歳で関東学士という位をもらいました。江戸幕府から富田の西場町に200石の領地(土地)をもらいました。さらに、35歳の時、儒学者でもあり幕府の医者でもあった父の仕事をつぎました。
竹洞は、1969年(元禄9年)に、江戸(今の東京)で亡くなりましたが、お墓は西場町の雲竜寺にあります。
足利学校にのこっている瑪瑙(美しい赤や青のしま模様のある鉱物)の琴台は、竹洞のものです。また、多くの書物もきふし、足利学校とも関係の深い人です。
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