人見竹洞
(ひとみちくどう)
(1637〜1696)

漢字かんじかれた歴史書れきししょ本朝ほんちょう通鑑つがん)をつくるのにかかわる

 人見竹洞ひとみちくどうは、1637ねん寛永かんえい14ねん)に京都きょうとで、足利学校あしかががっこう関係かんけいがあるとわれている小野篁おののたかむらすじをひくいえまれました。まわりがみな儒教(じゅきょう)勉強べんきょうしている儒学者じゅがくしゃ一家いっかで、医学いがく(お医者いしゃさんの勉強べんきょう)と語学ごがく言葉ことば勉強べんきょう)をちちから、経史けいし林羅山はやしらざんからまなびました。そして、林羅山(はやしらざん)中心ちょうしんとなってつくった「本朝通鑑ほんちょうつがん」という漢字かんじかれた歴史書れきししょにもかかわっていたとわれています。勉強べんきょうがよくでき、25さい関東学士かんとうがくしというくらいをもらいました。江戸えど幕府(ばくふ)から富田とみた西場町にしばちょうに200領地りょうち土地とち)をもらいました。さらに、35さいとき儒学者じゅがくしゃでもあり幕府ばくふ医者いしゃでもあったちち仕事しごとをつぎました。
 竹洞ちくどうは、1969ねん元禄げんろくねん)に、江戸えどいま東京とうきょう)でくなりましたが、おはか西場町にしばちょう雲竜寺にあります。
 足利学校あしかががっこうにのこっている瑪瑙めのううつくしいあかあおのしま模様もようのある鉱物こうぶつ)の琴台きんだいは、竹洞ちくどうのものです。また、おおくの書物しょもつもきふし、足利学校あしかががっこうとも関係かんけいふかひとです。