江戸時代、日本は鎖国をしていたのですが、1859年(安政6年)に、横浜港が外国の船も受け入れるようになりました。そして、海外から入ってきた機械で織った木綿の糸、人工の染め粉、バッタンやジャガードなどの機械の部品などは、足利織物を大きく変えました。これらの新しい技術を長い伝統を持つ足利織物にとりいれるには、先を見通せるすぐれた人物を必要としました。
初谷長太郎は、足利新田下町の織物買継商(品物を買って、それをさらに他のところに売る仕事)をしていた初谷安兵衛の長男として生まれました。長太郎は1862年(文久2年)12歳のときに初めて、鉄道、蒸気機関車、電信を知りました。そのころ住み込んでいた家にやってくる医者の鈴木先生の話を聞いたのです。その後、父に連れられて横浜に行き、そこで見たり聞いたりしたことにとてもびっくりしました。そして、ヨーロッパやアメリカのことにくわしい親せきの足利組買継商・安田源蔵と会っているうちに、長太郎は福沢諭吉が書いた「西洋事情」というヨーロッパのいろいろなことが紹介されている本を研究するようになりました。
明治時代になって世の中が大きく変わっても、日本の生糸は今まで以上に外国に売られていくようになりました。そんな中で長太郎は織物用の生糸ならば、撚糸として外国に売れるのではないかと考えました。そして、1870〜71年(明治3〜4年)のころから、機械で撚糸をつくる仕事を思い立ちました。本や知り合いの人からたくさんの撚糸や蒸気機関(水蒸気の力で機械を動かすしかけ)の情報を集めました。また1875年(明治8年)にはフランスから機械もとりよせました。1876年(明治9年)、国のお役所に蒸気機関や撚糸をつくる機械をつくってくれるよう頼みました。そのためにそのころのお金で2千円もつかわなければなりませんでした。そして1878年(明治11年)10月、この機械を使った工場が足利に初めて誕生したのです。その工場は、長太郎のしんせきの安田源蔵がかいこを飼っていた部屋を借りて建てられました。
ところがその機械を使いこなせる人が少なかったので、結局3年間は商売になりませんでした。そのため借金がふえてしまったので、長太郎はしかたなく蒸気機関をあきらめて水の力で動かす機械に挑戦しました。栃木県から千円を出してもらい、水車機械撚糸工場としてもう一度商売を始めました。この工場がどこにあったかは、今ではあまり分かっていないようですが、今福村の水車小屋のあたりのようです。
長太郎はその後、いろいろな機械を発明し、足利織物が発展するように努力をしました。1896年(明治29年)には、栃木県工業学校(いまの足利工業高等学校)の授業で使う機械のほとんどをつくりました。また、1897年(明治30年)の秋に西小学校で、連合共進会という会をとてもにぎやかにひらきました。ここで長太郎は特別に許されてリヨン手機式織物器機一式という作品をだし、来ていた人たちの注目を集めました。
この共進会の時に、足利町の本島延太郎が書いた「足利案内」という本には機器機師(織物用の機械を作る人のこと)として、渡辺彦五郎(2丁目)、石井清吉(大門)と長太郎の3人をの名前をあげています。長太郎は足利を代表する織物用の機械を作る職人の1人でした。
長太郎はそのほかにいろいろな仕事をしました。1871年(明治4年)の足利町総代、1872年(明治5年)の小学校創立周施方、1873年(明治6年)の小学校取締補助、1875(明治8年)の地租改正担当委員、そして1876年(明治9年)の足利町副戸長・小区会議員・議長などどれも大切な仕事でした。つづいて1879年(明治12年)には足利町会議員となり、議長にすいせんされて、次の年の1880年(明治13年)には栃木県会議員に選ばれました。この年の12月の足利町に大火事がおき、そのせいで長太郎の工場も燃えてしまいました。そのために県会議員をやめ、今福村に新しい工場を建てました。長太郎が、行ってきたいろいろな仕事がみとめられ、1885年(明治18年)、足利町戸長に選ばれました。
長太郎は、1904年(明治37年)に57歳で亡くなりました。
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