飯塚播種
(いいづかばんしゅ)
(1849〜1921)

神職しんしょくのかたわら教育活動きょういくかつどう

 飯塚播種いいづかばんしゅは、1849ねん嘉永かえいねんいま毛野地区けのちく大沼田町おおぬまたちょうまれました。
 飯塚家いいづかけは、400ねん以上いじょう代々だいだいつづ神官しんかん住職じゅうしょく両方りょうほう仕事しごとにしていたいえだったそうです。ちち播栄ばんえいとき、それまでくにをまとめる仕事しごとをしていた江戸幕府えどばくふがなくなり、あたらしく明治政府めいじせいふができました。あたらしい政府せいふは、神社じんじゃてらけることをめたので、播栄ばんえいは、神官しんかんになることになりました。播種ばんしゅは、1886ねん明治めいじ19ねんちちから神官しんかん仕事しごとけつぎました。
 それよりまえに、播種ばんしゅは、1868ねん明治めいじ元年がんねん)から1870年(明治めいじねん)まで漢学かんがく修行しゅぎょうにはげみました。そして、1875ねん明治めいじねん駒場小学校こまばしょうがっこう先生せんせいになりました。その利保小学校かかぼしょうがっこうにいきましたが、1881ねん明治めいじ14ねん大沼田村おおぬまたむら村会議員そんかいぎいんになったときに、先生せんせいをやめました。村会議員そんかいぎいん仕事しごとは、1889ねん明治めいじ22ねん)までつづけています。
 1886ねん明治めいじ19ねん)4がつ播種ばんしゅ大久保小学校おおくぼしょうがっこうきゅう毛野小学校大久保分校けのしょうがっこうおおくぼぶんこう)の先生せんせいとなり、つぎの年の5がつには、大沼田おおぬまた村社そんしゃ大山祇おおやまずみ神社じんじゃ」の神官しんかんとなりました。
 神官しんかんをやりながら先生せんせいをしていた播種ばんしゅは、1921ねん大正たいしょう11ねんくなりました。おはかは、鹿島園かしまえんひがし墓地ぼちにあります。