2代目木村浅七は、足利市名誉市民として有名です。浅七は、1891年(明治24年)11月10日、木村国三郎、タキの二男として、足利市助戸に生まれました。生まれたときに付けられた名前は、保之助といいました。1898年(明治31年)に助戸小学校に入学しましたが、この年におじいさんの初代木村浅七の養子となりました。1904年(明治37年)に、柳原小学校を卒業し、県立佐野中学校(今の佐野高校)に入学しました。また、1909年(明治42年)には、東京高等商業学校(今の一橋大学)に入学し、大正2年に卒業しました。次の年に、おじいさんの木村織物工場の仕事につき、22歳で館林の正田文右衛門の四女すまと結婚しました。1913年(明治44年)には、一人で1年間外国へ行き、オーストラリア、インド、マレーなどをおとずれて、足利の織物がどのように売られているか、その国々の状況をくわしく見て回りました。木村工場の織物の質はとても良く、スイス製として売られる物もあったそうです。インドでは、浅七はまるで王様の様なもてなしを受けました。
1916年(大正5年)に、おじいさんの初代木村浅七が亡くなり、二代目の木村浅七として名前をうけつぐことになりました。そしていっしょに木村織物工場を引き継ぎました。中国や、朝鮮の国々にむけた絹の織物や、オーストラリア、南アメリカ、アフリカの国々に向けたスパンクレープという織物などがたくさん売れるようになり、足利の織物のおおくの会社は、それまで少し元気がなかったのですが,また以前のように仕事がたくさん来るようになりました。緑町には浅七の指導で、一番いい技術でつくられた巨大な工場もつくられました。
浅七は、1917年(大正6年)に25歳で足利町会議員に当選して以来、町(市)、県、国を動かす仕事をしてきました。なかでも昭和12年から20年まで市会議長を勤めました。この間浅七は、栃木県や足利市の人々がより良い暮らしを送れるために、力を尽くしました。
1945年(昭和20年)12月6日、浅七はついに足利市長になり、大変な時代の足利の指導に当たることになりました。それから1967年(昭和42年)に市長を辞めるまで、足利市の人々がより良く生活できるためや、新しい町づくりなどのために努力しました。
浅七は、日本がとても大変な時代に生きました。戦争に負けた後に行われた農地改革という国の仕事では、11町歩という広さの田畑を手放し、その土地を市長として総合グランドや、市民会館の敷地として買い戻すことになってしまいました。
今、助戸に残る明治時代に建てられた木村工場は、すばらしい文化財です。 なお、浅七の胸像が足利市役所の前にありますので、ぜひ見にきてください。
|