初代(一番目)の木村浅七は、足利市名誉市民木村浅七元足利市長のおじいさんにあたります。浅七は、1848年(嘉永元年)に上野山田郡須永の星野家に生まれました。慶応2年、助戸村の木村林平の養子となりました。木村家は、天保年間に織物を作る仕事をはじめました。浅七は、跡を継いで、毎週大間々の糸市に出かけ、良い生糸を仕入れていました。また、フランス製の布を織る機械を買い入れ、より良い織物を作る研究をしました。日本国内の織物業の景気が悪くなるのをみて、外国に売ることを始めました。
明治18年、県が道路工事をすることになり、その時いっしょに、浅七の家の一部を整え、土蔵造り工場をつくりました。そのころでは、足利市の中でもとても良い工場のひとつでした。この建物は、今も助戸公民館として残っています。できれば、見学に行ってみて下さい。
明治30年頃には、自分の工場やその他のところでおおくの機械をつかって、織物を織っていました。桐生町(いまの桐生市)には出張所もありました。浅七の工場で作った織物の製品は、インドをはじめ、イラクやイランのあたり、アフリカなどに売られていきました。このような中で、浅七は、足利市の織物の仕事をする人たちの中の中心人物の一人になっていました。
浅七は、外国に自分たちが作った織物を売ることにとても力を尽くし、たくさんの会社や工場を建てました。明治33年に「両野染色合資会社」、36年に「足利模範撚糸合資会社」、40年に「両毛製織合資会社」などをつくり、44年には「足利ガス」という今でもある会社をつくることにも参加しました。
明治40年頃から、足利市内の織物の勢いは、前ほどではなくなってしまいました。しかし機械を使ってつくるようにした浅七の工場はますますさかんになりました。浅七は,1916年(大正5年)に亡くなりましたが、工場は孫の二代浅七に継がれました。
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