一夜にしてあまりに悲惨な出来事が起きようとは誰しも思っていなかった。
昭和22年残暑の厳しい9月中旬、台風のため停電、何となく不気味な感じがしていた。突然土手が切れた、土手が切れたぞーと、消防団らしき人の声と共に、ゴーゴーとすさまじい音がして、家の中に水が流れ込んできた。見る見る水かさは増し、畳は浮き上がり、家財道具は倒れ、何もなす術がない。押入のなかに上がったが、水はひさしまで来てしまった。家の外はズシンズシンと何やら音がしている。(後で分かったことだが、○○工業の材木が流れてきていたのだった)
もうダメだ…このまま水におぼれてしまう…そのとき兄が押入の板をはがし、屋根を突き始めた。
屋根に上がるんだ……トタン屋根だから大丈夫だ…やっとはがれたが、母は「自分に構わずおまえ達だけ行って」と涙を流していた。「ここまでくれば生きるも死ぬも一緒だよ…」無理に母を屋根に上げたが目が回るという。それもそのはず、すごい濁流だった。屋根の下にある格棒を利用して、母をうつ伏せに縛ったが、内心私も家ごと流されると思うと、涙があふれてきた。
明け方になるとだんだん水が引いてきたが、早朝から人々のざわめきが始まった。道路は川ごとく流れており、中には死人がすごい。
〜中略〜
とても口では表すことができない程、皆無惨な姿だった。また水に流されながらも木や板につかまり奇跡的に助かった人もいたが、行方不明の人もかなりいたという。
当時は終戦直後のことで、食糧難、物資不足の中、大きな水害が出たため、苦しい日々が続いたが、屋根の上で私も奇跡的に助かったことは生涯忘れられない出来事だった。
あれから50年、改めて亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
当時 足利市県町在住の女性
※文中の写真は足利市通一丁目の当時のようす